#1121黄金湯温泉出水災害

9月29日の放送は「黄金湯温泉出水災害」でした。

「トーク1」                

災害に対する避難はできるだけ早い方が良い。よくわかっているつもりでも、いざとなると避難が遅れてしまうこともあります。北海道・札幌でその教訓を忘れてはいけないと感じさせてくれる事故が起こりました。

1949年・昭和24年9月24日、札幌近郊の黄金湯温泉で出水災害が発生しました。水害は一瞬でやってきます。そのため、7人もの人々が濁流にのまれてしまうという悲惨な事故でした。

黄金湯温泉は、以前から人々の利用はあったと伝わり、その正確な起源は明らかにはなっていません。

場所は札幌の奥座敷といわれる定山渓温泉の近く。定山渓温泉よりやや札幌市側に位置しています。

記録では1883年・明治16年、熊本からの入植者により、カツラの木の下から湧出している温泉が発見されたとされます。

1887年・明治20年、吉川太左ヱ門という人物が湯宿を開きました。1890年・明治23年には、入植者の出身地から熊本開墾という地名になっています。

大正時代の記録には「黄金湯」の地名を見ることができます。名称の由来は諸説ありますが、現在では湯元の硫黄(いおう)が、きらきらと黄金色に光っていたためという説が有力になっています。

1936年・昭和11年10月20日には、定山渓鉄道線・黄金湯停留所が新設され、交通の便も整備されました。

1944年・昭和19年、札幌の割烹「いく代」の主人である斉藤源蔵が別荘を建築。戦争末期海軍の寮となりましたが、戦後接収が解除されてから旅館・松ノ湯として人々に開放していました。

松ノ湯は木造平屋20坪の建物2棟という小さな旅館。硫黄泉にゆったりひたれる温泉宿に、斎藤は住み続けていたといいます。

1949年・昭和24年には、他にも2軒の湯宿があり、小さいながらも、川の流れが岩を噛む音が聴こえる温泉として人々の人気を得ていました。

この年、全国的に天候が不安定でした。8月28日にキティ台風と呼ばれる台風10号が発生し、関東地方を襲いました。

首都圏を暴風域に巻き込み、群馬県で大規模な土砂崩れが生じました。31名が生き埋めとなり29名が死亡しています。

信濃川や渡良瀬川の上流部では堤防が決壊・土浦城西櫓(にしやぐら)も被害を受け解体に追い込まれたほどでした。台風は9月1日0時に日本海を北に進んでいき、やがて温帯低気圧に変わりました。

その後、1日の朝に台風は北海道に接近。1960年・明治35年以来47年ぶりの本格的な台風といわれました。しかしキティ台風が通過したときは、黄金湯の温泉旅館は無事だったと伝わります。

「トーク2」

キティ台風の来襲は、人々の防災意識を高めました。あらためて、水害への防備を考えさせるきっかけになっていきます。

松ノ湯では、12,000円を投資して早急な石垣工事を行いました。石垣は建物を囲うような形にしたといいます。この金額は、当時の大学卒初任給の半年分。相当大がかりな工事であったことが伺い知れます。

1949年・昭和24年9月22日、夜半から全道的に雨が降り始めました。雨は23日になると風速10m以上の風を伴って全道各地に被害をもたらしていきました。やがて各地で停電がおきます。

その夜も黄金湯温泉の各旅館には、数人が3軒の旅館に宿泊していました。各旅館ではそれぞれに雨と風への備えを確認。23日は眠りについていきました。

暦がかわった深夜24日午前0時半ごろ、増水した川の水が建物にあたる音がし始めました。この音に皆が起き出します。

宿泊客は停電で真暗闇の中、手探りで非常用の荷物をまとめはじめました。しかし、まだそのときは万が一に備えてという気構えでした。

しかし災害は突然襲ってきます。わずか1時間後の24日午前1時半、水音が一段と高くなってきました。

松ノ湯の板前は高くなってきた水の音が気になり、確認をしようとランプをつけて玄関の戸を開けてみました。

板前は目の前の状況に目を疑います。川の水は石垣を通り超えて、玄関前まで押し寄せていました。

その一瞬あと、川の水が流木と共に大量に流れてきました。板前は何をすることもできないままに、濁流に洗われてしまいます。板前の目の前に、柳の木が流れてきました。彼は必死にそれにしがみつきました。

あたりは真っ暗な闇。濁流はすぐに建物全体を覆いました。この濁流に斎藤源蔵の一家4人・使用人と宿泊客2名が巻き込まれます。人の力では、どうしようもない状況になってしまいました。

松ノ湯の板前は、濁流に洗われつつも何とか岸に流れつきました。しかしあとの7人は、行方が分からなくなりました。

豪雨は、豊平川下流でも被害を出しました。石山大橋の完全流失・ 幌平橋の橋脚傾斜・東橋の中央部 15m 流失など、いくつかの橋が壊滅的な打撃を受けました。

雨が治まった25日、午後3時までに下流石切山まで12kmの間で、次々と松ノ湯宿泊者の遺体が発見されていきました。

台風のあと雨が降り、水害に至る様々な条件があったことは否めません。一瞬ですべてを飲み込んでしまう水害は、常に注意をしていく必要があるでしょう。

黄金湯温泉の事故は、その教訓を私たちに教えてくれています。

出典/参考文献

札幌事件簿 さっぽろ文庫

インターネット資料

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