#1020マンオブザ北海道129蠣崎義広

9月22日の放送は「マンオブザ北海道129蠣崎義広」でした。

「トーク1」                 

北海道には戦国時代の争いはなかったと思われがちですが、道南地方で和人による覇権争いがされていたことは、あまり知られていません。その争いの中には、和人とアイヌ民族の戦いも多く記録されています。

特に蠣崎義広という武将が生きた1400年代から1500年代の北海道・道南地方は、アイヌ民族との戦いが起こり続けた時代でした。

当時の道南には、12の館と呼ばれる砦がありました。それぞれの館主は東北の安東氏の管理化におかれていました。館主たちは、それぞれの利益のために勢力争いをしていたと思われます。

館主たちの主家である東北の安東氏は、道南を管理するために守護職をおいていました。上ノ国守護・下ノ国守護・松前守護の3つでした。

蠣崎義広は1479年・文明11年に上ノ国で生まれました。父は上ノ国守護である謀略の武将・蠣崎光広でした。

光広は1514年・永正11年、松前守護の立場を得るために本拠地・大館に大船団で上ノ国から移っています。

また、1515年・永正12年のアイヌ民族ショヤ・コウジ兄弟の攻撃についても、和議を申し入れ、酒に酔ったところを襲撃するという手段で鎮圧しています。

これらの活動を義広は間近で見ていました。彼もまた父と同様に謀略の武将として生きていきます。

1518年・永正15年、義広は父・光広の死去に伴い家督を継ぎました。彼は39歳でした。このとき、蠣崎家は松前・大館にいて和人の中で最大の勢力になっていました。また、主家である安東家の代官という立場で、各館主や豪族の大部分を臣下につけていました。

しかし、アイヌ民族との関係はよくありませんでした。不平等な取引やアイヌ民族の酷使などは、当時から見られたといいます。そのため、蠣崎義広の生涯は、アイヌ民族との戦いに明け暮れることになります。

正史といわれる新羅の記録では、1528年・享禄元年にアイヌ民族と蠣崎義広の戦いが記録されています。蠣崎家はアイヌ民族の襲来を常に気にしていたと思われ、義広は自分の館である大館の近辺を見回っていたようです。

暴風雨の夜、彼は用心のために大館周辺を見回っていました。特に見張りが手薄となる天候の悪いは注意が必要でした。

見回りの最中、案の定アイヌたちが大館に攻め込むべく忍び寄ってきているのを発見しました。

義広は得意の槍でアイヌたちを撃退。翌朝、義広に突かれたアイヌの死体が館の堀に転がっているのが発見されました。

このときは大きな戦いではありませんでしたが、このあとに起こる戦いを予兆さえる出来事でした。そして翌年、本格的なアイヌとの戦いが始まります。義広を驚かせるほどの大規模なものになります。

「トーク2」

松前旧記によると、1529年・享禄2年3月、瀬田内のアイヌ民族首長・タナサカシが兵をあげました。義広はこれに対抗すべく、臣下の工藤九郎左衛門祐兼(すけかね)という武将にアイヌ軍を迎え撃たせました。

しかし不満に激怒しているアイヌ軍には抗しがたく、工藤祐兼は討ち死にします。タナサカシ軍は勝利に乗じて、上ノ国に攻め寄せてきました。大館にいる義広は、祐兼の弟・祐致(すけむね)を向かわせました。

祐致は知略でタナサカシを欺き、軍を松前・大館まで連れ出すことに成功します。義広はこの機を逃さず、タナサカシを弓で射殺しました。義広は祐致の軍功を高くたたえ、褒美を渡したといいます。

一方、新羅の記録では、義広が和睦と偽りタナサカシを誘い出して謀殺したとかかれています。

1531年・享禄4年にも松前・大館でアイヌ軍との争いが記録されています。雨の夜、アイヌたちが大館を攻めるべく、西沢の小橋を密かに渡ってきました。

義広はその足音を聞いて、北門から矢を放ちました。この矢がアイヌの左脇に命中。撃退に成功しています。但し、この記録も大きな戦いとはいえず、詳細なことはほとんどわかりません。

また、そのあとに大きな戦いが勃発します。東蝦夷夜話によると、1536年・天文5年6月23日、現在の熊石近辺でアイヌ民族首長・タリコナが兵をあげました。彼はタナサカシの娘婿で、妻から敵を討ってくれと言われていたといいます。

タリコナの軍はおよそ500人。近日にも松前・大館に攻め寄せてくるという情報が斥候から入ってきました。

義広は上ノ国の工藤祐致を先方として、義広の甥にあたる蠣崎基広に300人の軍勢で出陣させました。この軍勢がタリコナ軍を平定し、戦いは集結しました。

しかし新羅の記録では、義広の和睦の誘いと酒宴があり、その場で義広自身がタリコナ夫妻を切ったことが書かれています。タリコナは左肩から右腰まで打ち落され、その妻は乳首あたりの一の胴から切られたといいます。

蠣崎義広は、父・光広が行った謀略を共に行い、自身も生涯4回のアイヌとの戦いを経験しました。彼が存命中は、戦うことの準備やその後の処理に多くの力を注いだことが想像されます。

彼は1545年・天文14年に亡くなりました。享年は67だったと伝わります。死因が何であったのかは伝わっていませんが、当時としては長寿で生涯を全うしたのではないかと思われます。

義広の死後、蠣崎家の家督は嫡子・季広が継ぎました。季広はアイヌとの共存を模索したことでも知られています。さらに、その子の慶広は豊臣秀吉・徳川家康と連携して、松前藩を興していきます。

父・光広の謀略の時代を受け継ぎ、戦いに明け暮れた蠣崎義広。彼も時代の中でもがき続けた武将なのかも知れません。

出典/参考文献

北海道戦国史と松前氏 新藤徹 洋泉社 2016年

新羅の記録 現代語訳 無明舎出版 2013年

インターネット資料

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