#1019札幌の薬局

2023年9月15日の放送は「札幌の薬局」でした。

「トーク1」                  

様々な人々の不調に薬で応える。健康的な生活をおくるためには、医薬品の供給が必須といえます。その供給元というべき薬局は、ほとんどの町で機能しています。北海道でも古くからその対応がなされてきました。

北海道・札幌の開拓は、1869年・明治2年から本格的に行われました。札幌を本府として位置づけると、人々の生活の場として様々な施設が整備されていきました。

その中に病院もありました。1869年・明治2年、札幌に仮病院が設立されました。その2年後の1871年・明治4年、官営の病院が開設されます。しかし、開拓に従事する人々や家族にとっては、病院は敷居の高い施設でした。

彼らが頼りにしていたのは、古くからの民間療法。薬ということでは、行商による薬売りが人々の健康を支えていました。

そんな時代だった1881年・明治4年、渡辺佐五右衛門と妻キトという夫婦が札幌に移り住んできました。

キトは現在の石川県・能登で生まれました。18歳の時、2歳下の妹と2人で奉公のために箱館へ渡ったといいます。渡道の理由は、幕末の1868年・慶応4年に親が決めた結婚話に強く反発したためとも伝わります。

前年の明治4年に、渡辺佐五右衛門キトは結婚。札幌に居を構えます。キトは薬が開拓者に需要があると考えました。また、明治5年に開かれた薄野に向かう男たちに、朝鮮人参が人気だったといいます。

1872年・明治5年7月、渡辺佐五右衛門とキトは「いちの」という屋号の小さな薬舗を開業しました。場所は現在の中央区南1条東2丁目あたり。この店が札幌で初めての薬局でした。

店が販売する薬は、生薬からできる漢方薬が中心でした。その後、ターニングポイントとなる法律が施行されます。

1874年・明治7年に「医制」という法律が施行されました。この法律により、西洋医学が推進されていきます。必須となったのが、洋薬の知識を持つ薬舗主という現在の薬剤師でした。

このとき、薬の製造や販売は病院ではなく薬舗主が担うことになり、医薬分業がようやく確立されます。

佐五右衛門とキトは順調に札幌で薬販売を続けていきました。1879年・明治12年には札幌の人口は20万人を超え、益々薬の需要が伸びていきました。

そんな中、札幌でコレラが発生。2,000人もの人々が死亡しました。このとき、キトは日本橋へ向かい、ホウタンという薬を大量に仕入れたと伝わります。この薬はオランダ医学を学んで作られたコレラに効くという薬だったともいいます。

キトは商才にたけていました。1881年・明治14年ごろには、新店舗を、現在の中央区南2条西1丁目に開きます。

しかし、キトに大きな試練が降りかかります。

「トーク2」

新店舗を開いた直後の1881年・明治14年、夫の佐五右衛門が亡くなりました。46歳という若さでした。

キトは店を続けようとします。しかし法律が行く手を遮りました。当時、女性には営業許可がおりませんでした。そのためキトは、翌年に秋野幸三郎と再婚。店名を「一の秋野薬舗」と改めました。

キトは2代目となった夫の幸三郎を、現在の東京薬科大学である東京薬舗学校に入学させました。そして自身は、単身で東京へ薬の仕入れに出向きます。その仕事ぶりは豪胆で評判になるほどでした。

仕入先の日本橋の薬問屋街でもキトは有名だったといいます。ついたあだ名が北海道のエリサベス女王1世。後年の新聞では、キトが札幌女傑投票で1位を獲得するということまでありました。

一の秋野薬舗が立つ南1条周辺は、活気のある商業エリアとなっていきました。現在の丸井今井である今井呉服店をはじめとした多くの店が軒を連ねていきます。ついには札幌随一の繁華街に発展します。

札幌繁昌記という本で「一条通りは目抜きなれば、商売繁昌、店前には得意の出入り絶え間なく、いらっしゃい、お帰りと送り迎えの声、景気を添えて賑し」と記録されるほどでした。

この活況は、人々の薬の需要も高めました。一の秋野以外にも多くの薬舗が誕生していきます。

1891年・明治22年には、秋山愛生舘が創業しました。店を開いたのは、秋山康之進という人物。彼は明治21年、東京神田で創業した愛生館の社員。明治24年に愛生館北海道支部長として札幌に着任していました。

その後、支部は閉鎖されることになりました。このとき多くの顧客に懇願されて、札幌で独立して秋山薬舗を開業することにしました。

康之進の妻のナカは、秋野薬舗に勤めていました。開業時には様々な連携がありました。お互いに薬舗の持つ相互扶助の精神があったと伝わります。

秋山康之進は、山間僻地への薬の供給や弱者への施薬、家伝薬「活児」の販売などで人々に支持されます。

また、北海道開拓を担う屯田兵の後方支援や十勝・士幌町「佐倉」の開拓にも貢献。薬業組合・薬剤師会の中心的な存在となり、後の秋山愛生舘の礎を築き上げました。

一方、一の秋野薬舗も順調に経営がなされていきました。創業者のキトは1898年・明治31年に亡くなりました。享年は52。店はやがて漢方専門店「一の秋野総本店薬局」となり、現在も歴史ある建物で営業を続けています。

医療体制が整う前の環境の中、人々の暮らしのために開業されてきた札幌の薬局。今では当たり前の薬局も、様々な歴史があって広まっていきました。

そんな歴史もしっかりと意識したいものです。

出典/参考文献

さっぽろ10区「薬舗の始まり」北海道新聞 2023年2月24日

TVでた蔵 視聴者版ファミリーヒストリー ”女傑”と呼ばれた先祖

2018年7月30日放送 19:55 – 20:05 NHK総合 

秋山記念生命科学振興財団HP

インターネット資料

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